左足一線(2月9日)

「あまり考えたくないんだ」と聞こえた。足を組んで右肩を落とすいつもの姿勢で床のタイルの溝に目を落とした。午後から雨はあがると聞いていたが、やみそうにはなかった。目線をあげると机、1人で話す常連、新聞、禿げた頭、複製画、棚、テレビ。テレビではサッカー。俯瞰したピッチ、ベンチ、観客の表情、シュートシーン、スローモーション、悔しがるファン。左足には感覚が残っている。はるか昔に振り抜いた。右サイドからボールが回ってきた。右足で止めて、相手との間合いに晒す。右足の内側で左側に運ぶ。ボールしか見ていない。右足を踏み込んで、左足一線、思いきり振り抜いた。左足の甲を十分に伸ばし、ボールの芯をとらえたボールは右側のサイドネットに吸い込まれた。そこまで。そこで途切れている。それがいつで、どんな試合、どんな相手、どんな日だったのかはわからない。覚えていない。忘れたのかもわからない。忘れてなかったらなに?左足はさっきのことのように覚えている。足の動き、歩数、ボールの硬さ、ネットの揺れ方。スローモーション。傘を開いて客が出て行く。足音、扉の音、風、湿った空気、声。いつも通り忘れていくことがわかっている。

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