おねしょ

子どもの頃よくおねしょをしていた。寝るに小便に御をつけておねしょだ。その感覚は僕と言うより、股間が掴んでいる。行ってはいけないトイレというものがあるのだ。だいいち夢の中でも小便をするというのもよくわからないし、僕が生きている夢の中の小便をこちらの世界に排出してしまうというのも気に食わないのだが、街の公衆トイレのような、小学校の便所のようなクリーム色のタイル張りがまたさらに黄色みがかったようなここに来るともう危ないとわかるはずなのだが、そのときの僕は夢中になっているのか、気がつくことはない。すでにそのトイレの中にいて、端から3番目か4番目くらいの小便器に向かうと僕は自動的に放出してしまう。股間にぬくもりを感じるとこちらの世界の思考が動き出す。だいたいいつも左側なのは、僕の陰茎と睾丸の初期設定のおかげなのだろうが、この生物学的な変わりのなさに辟易しつつも誇らしいような、子どもの時に親類に親との類似点をつぶやかれたときのような歯痒さを感じる。26歳も目前となっておねしょをして朝4時半に目を覚まし、こんな文章を書いていると先ほどまでネイビーのインクで塗ったような窓外の一面がだんだんと薄明かりを灯してきて、つまらない朝の空気になっていくのをぼんやりと感じている。こんな文章はおねしょを頻発していた3歳時分のや、まして一昨年あたりでも恥ずかしくて書けなかっただろうに、人というものは変わらない部分を残しつつ変化するもので、日々少しづつ変わっていっている流動体のようなものだというと、じゃあこの全く変わらない夢の中の便所と温もりはなんなのかとパンツを干している。

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