薄暗い中を4車線の国道沿いにバスを待っていると、雨を遮っている赤い屋根から水が滴ってくる。夜も更けてきて、最終バスを待っているのは、僕と一組のカップルくらいなのだが、なぜか遠いタイのバンコクで雨に降られながらバスを待っていたときのことを思い出し、今でもその世界と連結しているような気持ちになった。あと12分電光掲示板に映る文字を見ていると、台湾の山の方でバスを待っていたときのことを思い出した。バスを待つという時間は、別の世界に繋がりやすい窓のようになっているように思える。僕の世代の挑戦は、この使い古されたバスや歩道やベンチやベニヤの板の建物をきれいさっぱり直すことではない。行ったことのない場所や誰も知らなかった世界や表現を生み出して、後世に名を残していくことでもない。強烈な推進力と他人との差別意識で上り詰め、お金を一手に集めることにもない。このどうしようもない現実に、バスが来て、携帯電話をかざして乗り込んだ。どうしようもなく探しあたらない、車内は空いていたが一人がけの椅子は空きが一つでそこに腰をかけた。いわゆる優しさというものを、窓には一面に雨の滴が付いていて、その模様越しに自販機のボタンの赤い光が滲んで見えた。優しさというもので、発車しますと言いバスは動き出した。この世界を埋め尽くすことだ。未来は暗いかもしれないが、携帯電話の充電は残り少ないが、特に当てもなく画面を撫で続けた。そんなことは関係なくて、マップのアプリの案内通りだ、時間もルートも、すべて。人と人はやっていけるはずなのだ。もっとうまく、仕事の連絡が来ているのをみたくないと思う、僕の心臓の中心が避けている。こんなことが続いていく、未来はさらに悪くなっていく、速度を上げたバスが重心を後ろに置きながら加速するのがわかる。そんなことがあってたまるか。
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